加藤和彦の天才

Music, 芸術, 音楽

yaozoです。

いましがた、連載の「読売中高生新聞で英語を勉強しましょう!」を書いていたら、英語の発音の話から「ベッツイ&クリス」の「白い色は恋人の色」の話を書きました。

あまり横道に逸れないようにと頑張って自制したので、書きたいのを我慢した分をこの投稿に落とそうと思います。

 

ベッツイ&クリス

私は小さいころから、とにかくこの人たちの「白い色は恋人の色」が好きで好きでたまらず、なんて素敵な曲なんだろう、と恋焦がれて生きてきたわけです。

 

それは、はじめてこの曲を聞いた小学生の頃から50代後半を迎える現在に至るまで変わることがありません。

楽曲・歌唱・編曲、どれをとっても文句のつけようがありません。これ以上のことはできませんよね、ってくらいにいい曲だと思っています。

このデュオは、ハワイ州出身のベッツイと、アイダホ州出身(意外!)のクリスによるものです。ちなみに、wikiでは、正式な日本語の表記は「ベッツイ」と「ベッツィ」や「ベッツィー」ではないと書かれています。英語綴りはもちろん”Betsy”なわけですが。

ベッツイの方は、アルトといいますか、主メロの下の流れを担当する方です。

一度音楽業界を離れた後、今でも現役として歌手活動をしており、時折日本のメディアに出たりしているようです。森山良子さんとこの曲を歌ったり、娘さんのエマさんとこの曲を歌ったりしています。

クリスは主メロを担当していた声の高い方の方です。

現在は、ハワイで音楽教師をしているそうです。

 

フォーククルセダーズチームによる楽曲

この名曲、作詞が北山修、作曲が故・加藤和彦、となっており、フォークルの2/3のメンバーで作っています。まぁほぼフォークルですね。

この曲の大ヒットに乗って製作されたアルバムの曲も、いくつかこのコンビが担当しています。

中でもオリコン9位までヒットしたのが↓の「花のように」です。この曲はリアルタイムで若者でなかった方であれば、私のようにアルバムを聞いてはじめて知った人の方が多いと思います。

まぁ、聞いていただければわかるように、佳曲ではありますが、「白い色は恋人の色」にある、魔法のようなものは感じられません。

ということで、典型的な「one hit wonder」、「一発屋」なわけです。

しかしこの歌の影響力というのは、やはりものすごいものがあったのではないか、と思います。

1969年当時にこれだけのクオリティのポップソングを聞いた人は、どんなに衝撃を受けたことでしょう。今の我々には想像がつかないと思います。

現に私は小学生になったばかりくらいのはずですが、「黒猫のタンゴ(1969)」「また逢う日まで(1971)」などの大ヒット曲とともに、強く印象に残っています。

ちなみに、「黒猫のタンゴ」は、お正月に父が父の友人の家に私を帯同してご挨拶に行った際に、酔った父から、この曲を歌うように指示されて、私も多少自身があったのか、得意げに歌い、お小遣いを頂いた思い出があります。本当はお年玉に過ぎませんが、私の中では、歌で稼いだ、一生一度のギャラだというように位置付けています。

それはさておき、「白い色は恋人の色」です。

 

加藤和彦本人も歌う

で、加藤和彦さん本人も、「フォークの百科事典」こと坂崎幸之助さんとのデュエットでセルフカバーしています。

女性デュオの歌を男性2人が歌って成立するのかというと、これがまた素晴らしい出来栄え。

坂崎さんの名人芸は言うに及ばず、加藤さんの声のすばらしさ、若い頃と全く変わらぬ歌声に感動しますね。

また、2コーラス目は、加藤さんが主メロを歌い、坂崎さんがなんと上にコーラスをつけるという芸当を見せます。

最後は、原曲にはない変則コード進行を見せて終わるという、アーティストシップを、さらりと見せつけてくれます。

「どうですか、こんなやり方もありでしょ?」といった、なんとも上品なパフォーマンス。私などは、加藤生まれの育ちからくると思われる品の良さを感じました。

 

加藤和彦の天才

加藤和彦の天才は、わざわざ語るべくもないのですが、もしかして知らない方のためにやはり一応おさえておきたいです。

学生時代から音楽活動をやっていながらもお寺の子なので、お寺を継ぐべく龍谷大学に入学しています。

大学在学中に「帰ってきたヨッパライ(1967)」をリリースします。まずはこれが大ヒット。

シングル2曲目は、「イムジン河」がリリース中止となりましたが、軟禁状態で10分ほどで作ったと語られる名曲「悲しくてやりきれない(1968)」をリリースしこれも大ヒット。

特に若い世代は、誰かのカバーを知らないうちに、なんども耳にしていることでしょうから、オリジナルをちゃんと聞いてみるといいです。是非。

 

そして、フォーククルセダーズ解散後、「あの素晴らしい愛をもう一度(1971)」をリリースします。

ここまでで約3年の間に、この日本ポップス史に残るスタンダードと言っていい名曲を3曲も世に送り出しています。まさに彼の天才が素直に発露していた時期だといっていいでしょう。

 

ミカ・バンドでイギリスツアー

1970年に結婚した加藤ミカをボーカルに、1971年サディスティック・ミカ・バンドを結成。

ドラムにつのだひろ、ギターに高中正義、ベースに小原礼という今考えるとスーパーバンドなわけです。つのだひろは自らのバンド結成のために脱退し、高橋幸宏がその穴を埋め、皆の知るミカ・バンドとなりました。後にベースが後藤次利に変わります。

イギリスのプロデューサー、クリス・トーマスの目にとまり、セカンドアルバム「黒船(1974)」同年には、かのロキシーミュージックのオープニングアクトで英国ツアーを敢行します。

当時の様子を残す音源としては、1976年にリリースされた「Live in London」があります。中でも最もファンキーな楽曲の1つ「スキスキスキ(塀までひとっとび)」。

↓はイギリスの有名な音楽番組「Old Grey Whistle Test」に出演した時の貴重な映像。

3rdアルバム「Hot Menu」から「Time to noodle」、そして「スキスキスキ」の2曲。

 

音はイマイチなのですが、当時の世相や空気感が伝わってくるのは、YouTubeで確認できるものの中で、↓の動画が一番です。

 

若い人は知らないでしょうが、多くの人がへんな帽子をかぶってますが、あれは「チューリップハット」といって、ベルボトム(ラッパスボン)と同じく、ヒッピーファッションの1つです。

私も、母親からかぶらされ、なんて変な帽子だろう、かぶりたなかった記憶があります。私のは、黄色や赤や緑などカラフルなものだったと思います。なんだかほんとに、みんなかぶってました。

 

ミカバンド解散後

1975年のうちに、ミカとの離婚により、ミカバンドは解散となります。

1977年には作詞家の安井かずみと結婚。

その後、竹内まりやのデビュー曲「戻っておいで・私の時間(1978)」、2ndシングル「ドリーム・オブ・ユー〜レモンライムの青い風(1979)」、4thシングル「不思議なピーチパイ(1980)」と、4曲中3曲を作曲し、竹内まりやを世に送り出します。

竹内まりやのあのそれまでにない「なんだか洋楽っぽくてかっこいいなぁ」「カルフォルニア的ななにやらを感じるなぁ(※イメージ)」というのは、加藤和彦の天才が作ったものだといっても過言ではないでしょう。

これは是非、動く竹内まりやでご覧ください。

一旦お休みを取ったのちの竹内まりやは、今度は山下達郎との共同作業による音楽制作が本格的にはじまり、今に至るわけです。

ちなみに加藤和彦は、竹内まりやの以前にも、井上陽水が最初の芸名アンドレ・カンドレとしてデビューしたころ(みんな知らないでしょう?)、2曲作曲して手伝っています。

そのほか、吉田拓郎を一躍全国区にし、「Jポップの原点」とまで言われる「結婚しようよ(1972)」のアレンジもしています。これは拓郎自身が加藤和彦にアレンジを依頼したとのこと。加藤はこのカントリーポップ的アレンジの肝ともなる「ボトルネック・ギター」を自身が弾いています。

左チャンネルのアコースティックギターやバンジョー(なぜか松任谷正隆!)等のグループ的音の塊に対して、右チャンネルで一人で相当激しく自己主張をしているスチール・ギターがそれです。アレンジに注意して、是非聞いてみてください。

彼はとにかくいろんな楽器を自身で演奏していたようで、早い時期からシタールなどを入手して弾いていました。

「10人のアーチストに対して10通りのアレンジができる」と、音楽業界のトレンドはある意味彼を中心に回っており神的存在だったようです。現在そういう人が見当たらないので、うまくイメージができませんが。

ともあれ、ミカバンド解散後は、様々な音楽活動を続けます。

村上龍の監督作品「だいじょうぶマイフレンド(1983)」のタイトルソングをリリースし話題となります。映画自体は、かのピーター・フォンダまで迎えて撮影されましたが、好評とは言い難いものだったと記憶しています。

サディスティック・ミカ・バンドを桐島かれんをボーカルに迎えて再結成してみたり、フォークルを再結成してみたりと、色々と精力的に活動を続けるわけです。

最後に行ったオリジナルな試みが、VITAMIN-Q featuring ANZAというバンドです。

ベースに旧友の小原礼、ギターに土屋昌己、ドラムに屋敷豪太、ボーカルにANZAというパーソネルです。

英国をコンセプトにメンバーが曲を持ち寄って「VITAMIN-Q(2008)」をリリースします。

天才の死

VITAMIN-Qの翌年2009年に、軽井沢のホテルで首吊り自殺を図り天才加藤和彦は亡くなりました。62歳の若さ。うつ病を患っていたとのことで、やはり神経症持ちの高橋幸宏と、薬の話をしたりしていたそうですが、病は彼を離さなかったようです。

「同じことは二度とやらない」をモットーとしていたと読みましたが、天才は天才で厳しい人生だなぁ、と思うのでありました。

 






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Posted by yaozo