なぜ日本の老人は幼稚なのか? 内田樹が語る高齢者問題

人生100歳時代

yaozoです。

内田樹さんのファンです。

出不精の私がわざわざ彼が出席するパネルディスカッションに足を運んだこともあります。確か内田さんの旧友の平川克美さんを含む4人くらいのディスカッションだったと思います。

内田さんも大瀧詠一さんのファン「ナイアガラ―」の一人です。

彼はナイアガラ―の定義を↓のように説明しています。

「『ナイアガラ―』というのは、大瀧詠一さんが実践してきた音楽活動(には限定されないもろもろの活動)をフォローすることを人生の一大欣快事とする人々の総称です。」「ナイアガラーは『日本のフリーメイソン』であるから、どこで知り合っても『私、ナイアガラーなんです』とカミングアウトすればたちまち百年来の知己となることができる。これは他のミュージシャンにはあまりないことである。」

内田さんらしい。意義なし。

ともあれ本日の投稿は、内田さんの新刊『人口減少社会の未来学』の刊行を記念して『文春オンライン』が彼にインタビューした内容のまとめです。

※まとめ部分は太字で記しました。まとめですので直接引用ではなく概要のとりまとめですのでごの旨ご承知おきください。

テーマは、いかに日本の老人が成熟のチャンスを逃してただただ年取ってしまったか。そしてそういう老人が大きな比率を占める高齢化社会に突入する日本社会はどのように生き延びればよいか、といったものです。もう数年で年金をもらえる年になる私としては重いテーマです。


団塊世代が介護の現場に与えるインパクトとは

段階の世代は、数が多く、同質性が高く、態度がでかい、という特質を持つと。うまれてからずっとマジョリティだったわけですから当然でしょう。そして、上下の世代と協調性がない。自分勝手なまま後期高齢者になってしまう。

※そういえば、キレる老人が増えていますね。マスコミでも話題になっていますが、私自身何度か体験しています。銀行の通用門の前で、入行したての女子職員相手に大声でどなりつけている70代男性。うどん屋さんで「なんでもいいから、適当にみつくろってもってこい」と箸置きごと店員に投げつける70代男性。暑い夏の日、信号待ちしていると、頼みもしないのに、ストローラーの中の赤ちゃんが暑がっているだろう、といって見ず知らずのお母さんに「なんてひどい親なんでしょ」と文句をつけてくる70代女性。枚挙にいとまがありません。中には、性格上の問題ではなく、認知症を患ってらっしゃる方も含まれるようで、ご家族と思しき方がしきりに相手に謝罪している場面も見ましたので、全員が全員ではないとは思いますが、心身がしっかりしていて、なんなら身なりもおしゃれしたシニアの方々が、相手の尊厳を無視して「お客様は神様だろう」といわんばかりの勢いで見苦しい行動に出ている様子を見るのは本当に気分が悪いです。我と我が身を振り返るよう日々気をつけねばなりません。内田さんの話に戻ります。

 

こんな老人は、介護される立場になっても、(特に男性は)若いころから仕事漬けで、自身が家事も育児も介護もやったことのない「生活能力が低すぎる」人間なので、介護職員たちも手に負えなくなるだろうし、それが介護現場での離職率を加速させる。制度をちょっと手直しするくらいでは、この介護問題は解決しないだろう。

高齢者にとって最も大切な生活能力とは、「理解も共感もできない他人となんとか折り合いをつける能力」である。意見を異にする他人と共生できる力である。

ところが、この団塊の世代は学生時代から社会人を定年対退職するまで、同学年の仲間を蹴落とラットレースに血眼になってきたタイプの人間が大半なので、彼らにこういった市民的生活力を期待するのは難しい。


 

大量の「幼児的な老人たち」をどうするか

こんな高齢者福祉が、それでは頑張ろう!ということで一念発起したところで、市民的成熟を期待できない。というのも、すでに大人になる人はとっくになっている。60超えて大人になっていない人は一生そのまま「老人の見た目をしたガキ」である。ともあれ、このような人々に相応の自尊感情を持って愉快に過ごしてもらうことは国家的な課題であろう。

 

金儲けと人間的成熟のリンケージが切れてしまった

行動経済成長期以降、日本では金を儲ける力と市民的成熟の間のリンクが切れてしまった。うそつきのガキでも金持ちになれたということだ(本当にそう思います)

戦後日本が、諸外国からエコノミック「アニマル」とまであざけられながらも、あそこまで必死に働いたのは、敗戦後に、「今度は経済戦争で敵討ちだ」という国家的大テーマが潜在的に共有されていたからだろう。当時の日本人は単なる「強欲」で金儲けにいそしんだのではない。大きなプランを遂行していたのだ。実際に1980年代初頭を頂点として、ロックフェラーセンターも、コロンビア映画も金で買ったわけだがこれは「俺たちは戦争には負けたけど、戦勝国の大事なものを変えるほどには豊かになったんだぞ」とアピールするための表現のひとつである。

 

※日本の土地価格で、アメリカがいくつも買える、などという言説が人々の口から日々漏れていた時期です。しかし、ご案内の通り、バブルは崩壊した。バブルというのは崩壊が前提の減少だから当然なのですが、バブルのもう一つの特性として、バブルのさなかには、人はそれがバブルだと気づかない、という恐ろしい事実があります。怖いですね。

そして、追い打ちをかけるように2005年の国連安保理常任理事国入りキャンペーンに大敗し(目標100か国の指示→実態30カ国。ショック)、一気に自信を失った。このワンツーがトラウマ的体験として今の日本に影を落としている。

そして大義を失って腑抜けのようになった日本のビジネスマンの中から、「自分さえよければいい。国のことなんか知るかよ」、というタイプの「グローバリスト」が登場し、これがデフォルト化し、一層の「国力低下」に拍車がかかった

 

国民的目標を見失った「エコノミック・アニマル」

バブル期に、ベンツに乗って、アルマーニに身を包んでいた浮かれビジネスマンは、今考えればある意味「可憐」であった。自分たちは浮かれながらも、国家的な目標を達成するために頑張っているんだ、という大義を抱けていた。

国家的目標を見失った「エコノミック・アニマル」は単なる「アニマル」に過ぎない。金儲けの目標が、自分のエゴの満足のためだけのような人間には大した知恵はわかない。なんのための金儲けか、何をやってもうまくいかない、どんどん落ち目になっていく。そんな国だ。今の日本は。

 

日本は人口減少社会のトップランナー

では、どうするか?国民的な目標として何を設定するのかは、悩ましいところだが、ダウンサイジング論や平田オリザさんの『下り坂をそろそろと下る』に示された新しライフスタイルの提案は、単なる対処療法ではなく、人口減少社会の長期的なロードマップたりうる。

ちなみに、この新書に寄せる内田さんの絶賛の声が↓。

『背筋のきりっと通った「弱国」への軟着陸を提案する”超リアリスト”平田リオザの「立国宣言」。』



日本は先進国中、最初に超高齢化・超少子化社会に突入する。世界初の事例を成功させて、ソフトランディングさせる。その手段・方策を世界に発信するトップランナーとしてのポジションを確立するチャンスでもある。そしてそれが日本に与えられた世界史的責務だと。

これは長期戦である。それをどうやったらご機嫌に戦えるのかが重要。後退戦だって、工夫次第で楽しくやれるはず。士気高く、世界史的使命を背に堂々と戦おうと提案したい。

 

※とここまでが、内田氏の分析と提案でした。「下り坂」のあたりは、五木寛之さんのヒット作『下山の思想』に通ずるものがありますね。



これからは、片意地張らず、トップを目指すのではなく、自身が何をしたいのか、何をすれば自身が満足できるのかを問いながら、虚心坦懐に、高い山からゆっくりと下山するような気持ちで生きていくのがよい、との思想です。

私は、スペインやポルトガル、(なんなら、オランダとイギリスを入れてもいいですが)といった、かっては世界的に映画を極めた国が、ゆっくりと、また急激に、世界の表舞台を降りて、その後、国がつぶれるでもなく、それぞれ世界に1つしかない特性を持った極めてユニークな国柄で世界に存在している事例が参考になるのではないか、と思っています。

こういった国々に旅行をすると、そういった感慨を強く持ちます。いずれも、決して若々しい国々ではありませんが、訪れたもの誰もが、歴史を感じたり、人間の脈々と流れる文化・文明に思いをはせたり、人を思ったり、家族を思ったり、祖国を思ったり、するのではないでしょうか。

全く同じ境遇の国は1つもありませんが、内田さんは「世界で最初の試み」と言っていますが、参考にできる「下りて行った先輩国家」から我々が学べるものもあるのではないでしょうか。

いやぁ、内田さんの話を読むといつも、背筋がぴんとさせられますね。我と我が身を振り返り、また自己嫌悪になりつつも、(同じ「ナイアガラ―」の一人として)勇気ももらえるのであります。

 

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Posted by yaozo