ぼくのおじさん4・完結編

人生100歳時代

前回までは、最初は、道路交通法違反とかいった「警察沙汰」を起こしていたおじさんでした、という話でした。

 

坂道を転げ落ちていくおじさん

おじさんの「悪さ」はどんどんとエスカレートしていき、ケンカ沙汰もそのレパートリーに加わっていきました。

もとより、ボクシングジムに通っていたぐらいですので、そもそもそういった取っ組み合いが好きな方だったわけです。最初の離婚の後、A市の繁華街で飲んで暴れては警察沙汰を起こしていました。

 

そのころすでに腰の曲がった立派な「おばあちゃん」になっていた実母(おそらく70だったと思います)が、その都度、田舎からおじさんの住む県庁所在地、A市まで1人で電車で出かけて行って、末息子を警察に引き取りに行っていたようです。

A市には、おじさんのすぐ上の兄が2人とも一家を構えていましたが、実兄ではなく実母が引き取りに行っていたようです。

そりゃ最初は実兄2人が世話を焼いていたのでしょうけれど、度重なる乱暴狼藉に、上のおじさんたちも愛想をつかしたのだと思います。

近くにいるから余計に嫌気が差したのかもしれません。

「おんなじ街にいるからって、なんで俺たちばっかりこいつの面倒みなきゃなんないんだ。たまには兄貴らも面倒みろよ」とういった気分だったのでしょう。

そりゃそうです。自分たち以外に、上に5人も兄がいるんですから、順番に面倒みたっていいんじゃないかってのもわからんでもないですね。遠いとはいえ。

でも上の兄たちは、家族もあるし、近くにすんでいるわけでもないので(ほとんどが田舎住まいでは、何人か東京かどこかに散らばっていました)、なんだかんだいって近寄らないようにしたようで、頼みの綱の下の兄2人が音を上げたことで、結局実母であるおばあちゃんが、一人で身元引き取りに行っていたようです。

 

そのあたりから、私の母の口癖は「●●おじちゃんが、また悪さして、ばぁちゃんを困らせてる。2人も●●おじちゃんみたいになったらだめだよ」というものでした。

 

おじさん急病で入院

そんなおじさんが、急病で入院したとのニュースが入りました。

それで、私の母と我々兄弟の3人で、おじさんのお見舞いに行くことになりました。

 

A市内の総合病院の病室を訪ねると、つきっきりで看病していおばぁちゃんに見守られながら、おじさんがベッドで横になっていました。

いつもは元気なおじさんは、術後で声がうまく出せないらしく、相応に時間をかけてわざわざ訪れた私たち見舞い客のあいさつには、まったく応えませんでした。

おなかのあたりに幾重にも包帯を巻いているおじさんは、手術痕が痛むらしく、とても不機嫌そうでした。

みたこともない陰気なおじさんの顔を見て、なんだか、いやぁな感じがしました。

 

病気の経緯や手術の様子なんかをかいつまんで話したおばあちゃんが、なぜか急に私たち兄弟に向かって、「■■ちゃんも、▲▲ちゃんも、ほら、おなかさすってあげて。おじさん、おなかがいたいんだよ」と、言い出しました。

 

そもそも子供は包帯が怖いものですし、その上、傷が痛くて見るからに不機嫌なおじさんのおなかなんて、正直、触りたくもありませんでした。

兄はおざなりに、「はい、はい」っと、直に触らない程度にササっとすぐに済ませました。こういうことに関しては実に要領の良い兄でした。

私の番です。

私は昔から、そういったところが兄と違って頭が回らず、よせばいいのに、本当に手で触ってさすってみました。

 

すると、私の動作で痛みを感じたらしいおじさんは、術後で出ない声を振り絞りながら「いてぇ!やめろ、バカ」などと私をしかり、思いっきり怖い顔をしながら、ボクシングで鍛えたこぶしを固く握り締めて、私の目の前にギリギリっと差し出すのです。

怖くてすくむ私を、母が引っ張り、「よ~し、おじさんの無事も確認できたことだし、じゃぁ、帰りましょ」とその場を収めてくれました。

私としては、2時間もかけて電車に揺られて、来たくもない病院にわざわざお見舞いに来て、あげく、おなかまでさすらされたのに、怒られてしまい、なんだかとても悲しくて、腹立たしく、泣きたい気持ちになりました。

おそらくその怒りは、病室を出るなり、母にぶつけたことだと思います。

母も嫌がる兄弟を無理やり連れてきたものなので、おそらくは、プラモデルか何かを買ってくれて機嫌をとったはずです。

病気は重篤なものではなかったらしく、すっかり完治したのでしょう。その後、全くおじさんの病気のことはうちでは話題にならなくなりました。

 

そうこうしているうちに、我々兄弟も中学生に、そして高校生になっていくわけですが、もうそのころになると、おじさんはあまり我が家に顔を見せなくなりました。

 

おじさん2回目の結婚

中学生になった後に、おじさんが来訪したのを覚えているのは、おじさんが2回目の結婚をしたということで、その2人目の奥さんを連れて、実姉である私の母のところに顔を見せに来た時のことです。

母がお茶かなにかの用意をするのに台所に下がっている間、小さいころ同様、リビングに呼び出された我々兄弟は、なにやらそわそわして照れくさそうなおじさんと、おじさんの2人目の奥さんとの4人になってしまいました。

「おい、おまえら。今度おじさんが結婚したB子だ。よろしく頼むぞ」などと、何を頼まれたのかわかりませんが、おじさんが苦し紛れに切り出します。

「こんにちは」「こんにちは」と我々。

「こんにちは、B子です。よろしくね」とその見るからに、気の弱そうな陰の薄そうな従順そうな新妻は、柔らかい笑顔を浮かべながら答えました。

1人目の奥さん(お金持ちのお嬢さん)が、陽気でパリッとして勝気な人だったので、今度は随分タイプが違う人だなぁ、と思ったことを覚えています。

 

その奥さんとの間に、2人の子どもをもうけたことを、随分後になって知りました。

なんとか、順調な人生を歩み始めたかに見えたおじさんですが、また事件を起こし、おばあちゃんの出動となりました。

 

本格的な悪さでつかまるおじさん

我々2人は既に中学生・高校生ぐらいになっていたためか、母ははっきりと今度の罪状を告げました

「大麻やってつかまったんだって、おじさん。ばかだよぉ、ほんとに…。おじさんみたいになっちゃだめだよ、2人とも。わかった?!」。

なんだか我々兄弟が叱られているような雰囲気でした。

 

今wikiで調べたら、井上陽水が大麻所持容疑で逮捕されたのが、1977年のことらしいのですが、おそらく時期的にはちょうどこの前後のことだったと思います。

中学生になりギターのコードを覚えて、はじめて弾けるようになった曲が井上陽水の『夢の中へ』でした。井上陽水は、中学生の頃の私のスターの1人だったので、陽水の逮捕の件は、とても強烈に覚えています。

逮捕後のアルバム『White(1978)』からのシングルカット『ミスコンテスト』を聞いて、「なんだか今までよりよくないなぁ」などと、とても落胆したことまで覚えています。

 

で私の中ではこの陽水の事件とおじさんの事件がタイムライン的に重なって記憶されているのです。

『帰れない二人』のシングルレコードをくれたおじさん。『氷の世界』のアルバムを聞かせてくれたおじさん。

私が最後におじさんに会ったのは、おばあちゃんの葬式のときだったと思います。

その頃、おそらく30代後半だったであろうおじさんは、人目もはばからず棺桶にすがりつき「かあちゃん、かあちゃん!」と大声で泣き叫んでいました。

大の大人が大勢の人の前で、あんなに身も世もなく泣き崩れるのを見たのははじめてでしたし、とりあえず、今のところあれ以来見たことがありません。

ドラマじゃないんだから、普通そんなに泣きません。

 

それ以来、冠婚葬祭は人並みに、いくつもありましたが、それがおじさんを見た最後でした。

我々兄弟が上京してしまい、めったに帰省しなくなったこともあって、会うチャンスが激減したのだと思います。

 

親不孝の感染

こんどは我々が親不孝息子になる番のようでした。

私は私で結構な親不孝をしでかしましたし、兄は兄で、この40年で帰省したのは2-3度だけ、というありさまです。

でも母はそんな兄の話題に及ぶと(しばしば及ぶのですが)、「まぁ、警察のやっかいになってないんだから、それだけでも立派なもんだ」と言っていました。

警察のやっかいになって実母を泣かせたおじさんは、私の母における「立派な息子」のバーを随分下げてくれたようです。

私も、「とにかく警察のやっかいにだけはならないでおこう。それで及第点なんだから」と思うようになっていました。

特に人様に尊敬されたり感謝されたりするような立派な人物になる必要がないのですから、その点まったくプレッシャーを感じずに生きてこられました。

母はしきりに、「立派な人になんかなる必要ないんだからね。とくかく人様に迷惑をかけないこと。警察のやっかいにならないこと。そんだけで十分だから」と言っていました。

 

おじさんのアルバム

まぁ、我々の親不孝ぶりはまた別の話として、最後におじさんと私が接点を持った時の話で、私のバージョンの「ぼくのおじさん」を終わりにしたいと思います。

それこそ親不孝で、ほとんど帰省しなくなった私が、珍しくなにかの折りに(断り切れない冠婚葬祭だったのでしょう)、帰省した日の夜のことです。

「●●おじさん、死んだよ」と言いながら、母が一冊のアルバムを私に手渡しました。

 

なんだか怖くて、あまり見る気がしなかったのですが、とにかく古ぼけたそのアルバムを開くと、冒頭のページには私の母宛に書いた、とても汚い文字で書いたメッセージがありました。

内容は、大体以下のようなものでした。

大好きな姉ちゃんへ

これは俺が唯一持っているアルバムだ。

女にも逃げられたし(2番目の奥さんとは離婚して、3人目のガールフレンドにも捨てられたという意味だと母に言われました)、子どもたちからは縁を切られてしまった(2人目の奥さんとの間にできた2人の子どもは、離婚の際、おじさんを「いらない」と言って縁を切ったそうです)。

みんな俺が悪い。今や俺は1人で死んでいく(病気で死ぬ寸前に、病室で書いたメッセージのようです。字がぐちゃぐちゃだったのは、手がうまく動かなかったからでしょう。)。

かぁちゃんはもういないし、兄貴たちは全員会ってもくれない。

俺に残されているのは、もう姉ちゃんだけだ。

どうか、誰も受け取り手の無い、このアルバムを受け取って保管してくれないか。

頼む。

バカな弟より

 

アルバムには、子供のころの写真1-2枚にはじまり、東京で遊んでいた時期、A市にUターンして暴れていた時期の写真などが貼ってありました。

愛車のボンネットに腰を掛けて気取っています。

ボクシンググローブをつけて、ファイティングポーズをとっています。

どこかキャンプにでもいったのか、川辺で立っています。

 

アルバムの中のおじさんは、どれも笑っています。

でも、家族との写真は1枚もありませんでした。

見事に全部の写真がワンショットのものだけでした。

 

まぁ、家族の写真と言い出したら、最初の奥さんとの2ショットはいいとしても、2人目の奥さんとその子どもたちとの写真になりますし、そうなると3人目の内縁の妻は面白くないでしょうから、外さざるを得ません。

おそらくそういった事情で、1人きりで笑っている写真だけのアルバムが出来上がったのかもしれません。

結局の3人目の内縁の妻にも捨てられたわけですから、私の母の元に送られてきたんですけど。

死因は、内臓のどこかの臓器のがんだったと思いますが、正確には覚えていません。

 

母親は、私が一通り写真を見たことで安心したのか、私の手からアルバムをとりあげて、ポイっとそのあたりに放り投げました。

「ほんとに、バカな子だったよ。親不孝で、やんちゃばかりして」

と目を伏せながら、涙を流すでもなく、ため息交じりにつぶやいていました。

もうこの頃には「おじちゃんみたいになったらだめだよ」とは言われなくなっていました。その日も、言われませんでした。

 

おじさんの残したもの

そのおじさんは、どこの大家族にも1人ぐらいはいる、典型的な「鬼っ子」的存在です。程度の差はあるでしょうけど。

私も、おじさんのようにはならないように(せめて警察のやっかいにだけはならないように)なんとか過ごしてきました。

警察のやっかいにならないようになんとか我慢強く生きてきたのはいいとしても、かといって私自身がこのおじさんより、よほど人として立派かと言うと、その点についてはわかりません。

少なくとも、私の音楽の原風景はこのおじさんの存在がなかったら、随分違ったものになっていたと思いますし、小さいころに、東京の空気を運んでくれたおじさんは、もろ手を挙げて迎え入れたいとないえかったとはいえ、毎回相応に楽しい時間を過ごせました。

いつも、面白いことを言ってふざけて、大笑いしていたおじさん。

文化人類学の知見を待つまでもなく、このおじさんは、典型的なトリックスターとして、私の父母が言わないようなことを選択的に我々の耳に入れようと努力していたようです。

ある種、がんばってやってた節もあるかもしれません。

それは、自分をいつまでも受け入れてくれない義兄(私の父)への彼なりの復讐だったのかもしれませんし、単に仲間とふざけるみたいにからかって楽しんでいただけかしれません。

いまでもたまに、このおじさんが私の中に生きていることを感じ入る瞬間があります。

もちろん血がつながっているのですから似ているところも多少あるから、というのもあります。

ただそれを除いたとしても、あまりカラフルとは言えなかった私の幼少期のスポットライトがあたる思い出のいくつかは、他ならぬこのおじさんが作ってくれたものでした。

私はその土台の上に、たいして立派でもない自分を作ってきたわけです。そういう意味で私はこのおじさんに相応の恩義があります。

 

ありがとう、ぼくのおじさん。

 

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Posted by yaozo