百田尚樹『日本国記』と『副読本』

人文社会科学

yaozoです。

今年初頭、人気小説家である百田尚樹による大ヒット歴史本、『日本国記(2018年、幻冬舎)』を読みました。

 

発売前から2週連続でAmazon1位

この本は、百田尚樹ファンの期待を背に、発売前にも関わらず、2週連続で「ベストセラー1位」になったという大ヒット作品です。



編集が有本香で、彼女は百田尚樹がレギュラー出演している『真相深入り!虎ノ門ニュース(DHCの運営するインターネットテレビ番組)』でも、百田氏としばしば共演しているジャーナリストです。

DHCテレビ

発売前にして、短期間でどんどん人気が急上昇し、初刷りから、重版また重版と、初版の冊数をどんどん増やしていったようですが、そのあたりの事情について幻冬舎社長の見城徹と百田、有本の3人で語っているのを見ました。

多少なりとも、出版事業に関わりのある仕事をしてきた私の限られた知識、経験に照らして考えても、この単行本の初版発行に至るまでのプロセスは他に類をみない、稀有なヒット作だといってよいでしょう。

「副読本」も大ヒット

その後を追うように、百田尚樹と有本香の対談集『「日本国記」の副読本』も発売されました。

私も本書に追って買いました。買ったままなかなか読めずにいたのですが、大型連休を利用して他の「積ん読」たちとともに、読むことができました。



この対談集は本編の「おまけ」の位置づけで刊行されてますが、本編に負けず劣らずなかなか面白く、すらすらと読めました。

対談集なこともあり、二人の「息づかい」や「情緒」のようなものがひしひしと伝わってくる良書でした。

本編では書けない裏事情とか、なぜあのような構成にしたのか、なぜあの点を重視したのか等々、作者と編集者の「意図」について詳しく読むことができて、まさに優れた「メイキングオブ」本となっていました。

 

ハルキストとナオキスト

ただ、「切り口」というか、その裏の「哲学」「視点」といった点でいうなら、私のように、「虎ノ門ニュース」で百田/有本両氏の出演回は、武田邦彦先生の出演回と同様、ほぼ毎回見ているものにとって、絶句するほど驚かされるような「ものの見方」というものは、そう多くはありませんでした。

ただし、一点だけ「そう来るかぁ」ととても驚かされたのが、両氏が村上春樹について語っていた下りです。

有本香がいきなり、「日本の読書会には特徴的なファン集団として、『ハルキスト(村上春樹ファン)』と『ナオキスト(百田尚樹ファン)』がいるんです」として、村上春樹の作品を引き合いに出してきた点です。

ここでわざわざ言うまでもなく、村上春樹はいまや作品が出るたび世界の各国語に翻訳され、世界中にファンを持つ小説家です。

かくいう私も、『羊をめぐる冒険』あたりからリアルタイムで新刊本を追いかけてきた村上春樹のファンです。

日本語版は小説、エッセイ、ノンフィクションとジャンルを問わず、リリース日に手に入れて夜を徹して読んでいます。

極めてまれに行なわれるインタビューののった雑誌なども必ず買って読みます。

また、英訳版についても、フィクション作品は長編・短編集を問わず英訳版も所有しているほどの「マニア」です。

今では、主な作品は紙の書籍のみならず、何時どこで読みたくなっても読めるように、日英ともにKindle版すら持っています。


村上春樹の小説は「日本人が書く必要があるか?」という視点

そんな村上ファンの私ですので、やはりというか、百田尚樹の小説は読んだことがありません。

こんなに大ヒット小説を出している氏の作品ですが、村上春樹作品への偏愛がひどすぎて、他の現代作家の作品をこの30年ほど、ほとんど読まなくなりました。

ちょっとした縁があって、川上未映子(芥川賞受賞作家)の小説は、サイン本をもらったので読んでみたくらいです。



そんな川上未映子も村上マニアだったらしく、なんと村上春樹との対談集というか、インタビュー本というか、そういった本を出しています。

たまたま書店でみかけて買ったのですが、見かけたときは、わが目を疑いました。

あの川上未映子が、あの村上春樹と対談って、、、、、。

ファンは恐ろしくて聞けないような、あれやこれやも、川上未映子のキャラクターなのかなんなのか、同じ関西人だからなのか(そりゃないか)、村上春樹も、時にするすると、時に長い時間をかけた後に、彼女の質問に誠実に答えています。驚くほど誠実に。


 

話を戻しますが、そんな私なので、百田尚樹の他の評論本も買って読んだりするのですが、百田本を読む時の自分の「モード」は、村上春樹の「文学作品」を読む時のそれとは、明らかに丁度180別のものです。

なので、副読本の中で両氏が、村上春樹の名を出してきたのは驚きました。

そして、その名が出された瞬間にわかるわけですが、やはり両氏は村上作品に対しては原則的に否定的であり、「あえて日本人が書く必要がない作品」とまで言い放ちます。

 

『グローバルな作品と言われることが多いですね』と言う有本氏に対して百田氏は、『どんな父母が育てて、どんな人に囲まれて育ったらこんな小説を書く人間が生まれてくるか、全く想像できない』と言います。

なるほど、そういわれてみると、私もその意見には同感です。

 

日本人が「書いてもいい」んじゃないですか?

ただ、『日本人が書く必要がない』という意見に対しては、『その通りであると同時に、日本人が書いてもよい作品』とも思います。

彼の書く小説世界は、原則的には日本を舞台に日本人を主役して書かれています。

ただし、それは何もその小説に実際に出てくる「北海道の奥地」であったり、「阪神地方のある都市」であったり、「北陸地方の小さな町」である必然性は特にあるとも思えません。

しかし、私や日本の村上春樹ファンは、その都市名を聞くと、やはり『村上春樹という優れた小説家が、ほかならぬ日本人であって良かった』と思うのです。

たとえば、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロは、日本人を両親に持ち、日本語も実は少し話せたり、日本を舞台にした小説を書いたりしたことがありますね。


とはいえ、彼はやはり幼少期に一家でイギリスに渡ってしまった「日系イギリス人」であり、インタビューには英語でしか答えませんし、ほとんどの作品の舞台は日本ではありませんし、ほとんどの小説に日本人は出てきません。他のイギリス人作家と同様のスタンスで作品を書いています。

私は、イシグロの作品に出合ったのはかなり遅く、『私を離さないで』を誰かが書評で推薦したのを機に知り、翻訳が出る前にAmazonで買っています。今調べたら2005年のブッカー賞受賞作品だと書いてありましたので、14年くらい前ですね。

ネタバレしないように書きますと、ある種のSF作品ともデストピア作品ともいえるので、出だしの部分では、なかなかどんなテーマかわからず、ところどころ意味の取れない部分がありました。中盤くらいから、メインテーマが分かってきたので、意味が分からない部分はなくなってきて最後まで一気に読んだことをおぼえています。

その後、翻訳が2006年4月に発売されたとありましたが、私は書店で平積みにされているのを買っていますので、2006年夏前には翻訳で再度読んでいることになります。



やはり、私は『浮世の画家』よりは、『わたしを離さないで』の方が好きです。

 

私は村上春樹がイシグロのような「日系イギリス人」の作家だった場合を仮定した場合、日本を舞台に日本人を主役として書いていなくても、同じくらいファンになった可能性はリアルに想像できます。

しかしもし村上春樹が日系イギリス人で、イングランドを舞台に小説を書いていたとしたら、私が今かじる『こんなに大好きな村上春樹が日本人で良かった』という、なんだか親兄弟や親戚が立派なことを成し遂げて、人様のお役に立つような人物だった際に感じるような、特殊なしあわせは感じられなかったでしょう。

 

といったことを総合的に考えると、世に「右翼的」と言われる百田・有本氏の発言や政治的スタンスには、万感の賛同を持つ一方で、かといって『その文脈で村上春樹を持ってくる必要性』というのは全くもって共感できませんでした。

彼らがそういうスタンスをとること自体は手に取るように理解できますが、他方で、この本でそのお話は不要かな、と思いました。

でも、そう書いた直後に思ったのですが、こういう意見があったからこそ、上に書いた『村上春樹が日本人で本当によかった』と逆説的に強く思い起こされたわけで、実は両氏の発言は村上春樹ファンにとっても、意義のあるものだったのかもしれない、と思った私でした。

 


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Posted by yaozo