知ってるようで知らなかったオリビア・ニュートン・ジョンがスターになるまでの軌跡

Music, 音楽

yaozoです。

約2か月前の2022年8月8日、オリビア・ニュートン・ジョンが73歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

オリビア・ニュートン・ジョンは、カレン・カーペンターと並び、私の若い日の2大ディーバの一人です。

1992年乳がんを発病し、2013年には肩に転移し、2017年には脊髄がんを発病という、がんとの闘病の後半生だったようです。

がんにおかされてからは、闘病しながらも、オーストラリアに「オリビア・ニュートン・ジョン・がん健康研究センター」を設立するなど、がん撲滅のための様々な活動に携わっていたとのこと。

彼女の訃報に接して、改めてwikiやらYouTubeやらで、彼女のことについてノスタルジックな視点で色々と調べてみました。

世界的アーティストとして打活躍していた時期は、ちょうど私が音楽に目覚めて目を輝かせていろんなアーティストの作品を聞き漁るようになった時期に重なります。なので、ビッグネームになってからの彼女の活躍は大体フォローできていました。

しかしそのころは、wikiもYouTubeもなかったころのこと。ビッグネームとして成功を収めるまでの道のりについては全く知りませんでした。今日は、そこではじめて知った、オリビア・ニュートン・ジョンのデビュー最初期から世界的ブレイクまでのキャリア初期について書いてみたいと思います。

YouTubeで知るオリビアの人生の全貌

彼女はオーストラリア出身の世界的アーティストだということは広く知られています。

たとえばビー・ジーズ、AC/DC、カーズ等など、「オージー・ポップ」といった一連のスターたちの一人、といった知識レベルですので、それ以上の詳しいことは知りませんでした。

つい数年前にwikiで調べて、元々はイギリス生まれで、小さいころにオーストラリアに渡って成長し、イギリスにもどって下積みを積んで、その後アメリカで成功を収めた、といったことを初めて知りました。なるほどねぇ。

ちなみに、ビー・ジーズも、AC/DCも、元々イギリス生まれで幼少期にオーストラリアに渡ってから長じ、その後、世界的アーティストになったという共通点をもっているようです。

で訃報が流れたのち、彼女の功績をたたえる、またはキャリアを振り返る数々の追悼番組が当然のことながら作られてますので、YouTubedeいくらも見つかりました。

先週末、いつものようにリビングの大画面を占有してYouTubeを見ていたところ、たまたま流れてきた彼女の動画をきっかけに、一日中これらの動画を見まくりました。

中でも↓のABCの番組「Sunday Night」が最も充実していました。生前に彼女のアメリカの住まい(牧場)を訪ねて本人にディープなインタビューを行っている秀逸な番組です。

育ての親ともいわれているクリフ・リチャードをはじめとする関係者へのインタビューも充実しておりますし、なにより、イギリスでのいわゆる「下積み時代」の映像が沢山紹介されており、それが一番の発見でした。尺も40分以上あり、力作といってよいでしょう。さすがオーストラリアの番組だけあります。地元出身の世界的アーティストを深く広く紹介しています。

 

また、映像は↑がもっともまとまりのよい充実したコンテンツでしたが、↓の湯川れい子さんのラジオ番組もまた、本人との45年にもわたる交流があったという湯川れい子さんが語る、オリビアのフルキャリアと日本関係のあれこれについてディープに語られており、ファン必聴ものです。曲抜きでも約45分になる番組を2回にわたって放送されました。まだの人は是非どうぞ。

https://www.youtube.com/watch?v=Sv2MY-ZCKDw

https://www.youtube.com/watch?v=P46qTBlp9s4

 

オリビアの下積みからデビューに至るまで

オリビアは、イギリスのケンブリッジで1948年に生まれています。

その後、大学の教授だった父親がオーストラリアの大学に渡るのに合わせて家族で移住しました。オリビア5歳のこと。

で、そこで小さなころから歌の上手な女の子として成長するわけですが、14歳からバンド活動を開始。1965年に出演したオーストラリアのオーディション番組で優勝して、その懸賞で生まれ故郷のイギリスにもどり、翌1966年にはアーティストデビューしているようです。

日本語wikiにはこのあたりがパパっと触り程度で済ませられていますがが、実はこのときのオーディションでは「Pat Carrol(Farrer)」という女性とデュオを組んで優勝しています。

オリビアは1947年生まれ、パットは1946年オーストラリア生まれとあるので、おそらく同級生か一つ違いでしょう。この仲良しデュオは、音楽業界での成功を目指してイギリスにわたります。

まずはシャドウズの元メンバーで、イギリスの大スター「クリフ・リチャード」のコーラス・ガールとして下積み生活を送ります。

ちなみに実はオリビアは、このクリフ・リチャードの1972年の来日公演のバック・コーラスとして初来日しています。このときはあくまでもリチャードは主役ですし、オリビアは特にメディアの注目を集めていないことと察せられます。

↓で、元気はつらつな2人がコーラスガールではなく、独立したアーティストとして『Today』を歌っているのが1968年ですので。1966年に職業歌手としてのキャリアスタートから2年くらいでby nameでしっかりとデビューしています。

低い方のパートを歌うパットもかわいく、歌もうまいですね。

この二人の友情はオリビアの生涯にわたって続くことになります。

で、このパットは、二人がコーラス・ガールをやっていたクリフ・リチャードがもともと率いていた人気バンド「シャドウズ」のメンバーの一人「John Farrar」と結婚することになるわけです。

彼女は70年代から80年代までソロアーティストとして活動しますが、オリビアほどのヒットに恵まれず、1970年代前半でソロ活動を終えます。その間も、オリビアとの友情は途絶えることはないばかりか、オリビアの楽曲のコーラスで参加していたとのこと。一方が世界的アーティストとして飛躍していくとなれば、多くの場合、離れ離れになるのが通例でしょうが、この二人は例外的に、オリビアが無くなるまで親友だったようです。

夫のジョンがオリビアのプロデューサーだったこともあるのでしょうけれど、まぁ、そこはそこで、自分ではなく親友のヒットを夫が支える、というのもまぁまぁ微妙かと思うので、よほどこの二人の友情の固さが察せられます。

今回YouTubeを見ていると、本当にちょくちょく、いろんな番組で「オリビアの親友であり、元デュオを組んでいたアーティスト」ということで、よく二人でテレビ番組に出演しているので、おそらくは本当に親友なんだろうなぁ、とおもいます。なにしろ、10代の若いころから二人で手と手をとってびくびくしながらイギリスの音楽業界に飛び込んで、二人で苦労を共にした仲間なのでしょうから、絆の固さは本物だと思いますね。

Pat Farrer名義でも、Pat Caroll名義でも、70年代のパフォーマンスがYouTube検索にヒットしませんし、Spotifyでも検索にヒットしません。ソロ活動自体は、メディアの露出もやはり低調だったのかもしれませんね。

とはいえ、↓は、イギリスでオリビアとデュオ活動をしていたころ、単独でオーストラリアの人気音楽番組に出演してスタンダードナンバー『Fever』を歌う20歳ころのパット・ファーラーです。うまい。こりゃ優勝しますわね。

ジョン・ファーラーの存在

でこのパット・キャロルと結婚したジョン・ファーラーの話になります。

彼は、自分の奥さんのパットのソロ活動も助けるわけですが、オリビアのソロ・デビューから生涯にわたってプロデュースすることになるわけでオリビア全キャリアにおける最重要人物なわけです。

まずファーラーは、ボブ・ディランの原曲(1970年)とジョージ・ハリソンのカバー(同じく1970年)で有名な『If Not For You』をオリビアのデビュー曲に選び、これをカントリー調にプロデュースし、1971年にソロ・デビューさせます。

本人はこのカントリー路線について、あまり納得していなかったようです。

今はもちろん大好きですけどね。

とは語ってます。

彼女を世界的アーティストに押し上げたのは『Let Me Be There(1973年)』のタイトル・トラックですが、ジョン・ファーラーは、世界を狙うには、アメリカを制覇しなければならないと考え、カントリー調のアーティストとしてプッシュしたという考えがあったようです。

このアルバムは、(この時代は珍しいことではありませんでしたが)イギリス盤とアメリカ盤で、収録曲や曲順が異なりますが、どちらの盤にも、カントリー系のアーティスト、ジョン・デンバーの大ヒット曲『カントリー・ロード』も入ってます。

ともあれ、このスマッシュヒットで一躍世界的なステージに立ったオリビアは、この翌年の1974年に『Long Live Love』を発表し、ここから『I Honestly Love You』が大ヒットし、今日われわれが知るオリビアのキャリアがスタートするわけです。

ファーラーは、オリビアが世界的スターになった後もプロデューサーとして彼女を支えます。

デビューに貢献したプロデューサーとは、大スターになった後には、方向性に違いによって離れ離れになるっていう話はよく聞きますが、ファーラー/オリビアは、たとえば彼女のイメージを大きく変えた、80年代を代表する大々ヒット曲『Physical(1981年)』なんかも自身で作曲もしておりますし、その後の彼女の後半生のアルバムでもプロデューサーをつとめています。

なので、オリビアという人は、ともに業界デビューを果たしたパットといい、その夫でプロデューサーのジョン・ファーラーといい、下積み時代のビジネス/友情関係が生涯続いたという、なかなか珍しい方だったようです。

オリビアの世界的アーティストの座を本当に決定づけたといったいい『Have You Never Been Mellow(1975年)』以降の話はまた別投稿で書いてみたいと思いますが、まずは、私と同じアラ還世代の男女ともにアイドルといっていいオリビア・ニュートン・ジョンの世界的スターになるまでのキャリアの前半について書いてみました。

2015年には25年ぶりに来日公演をやったことを知りましたが、行っとけばよかった。後悔あとに立たず。

もうこの年になったら見れるもんは、億劫がらず必ず見ておきましょうね。

ではまた。

yaozoでした。

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Posted by yaozo